きちんとうれしがることについて

9月4日、うるま市のエイサー祭りに行ってきました。沖縄在住12年目の大先輩と、沖縄の芸能を研究している小先輩と三人で、浜比嘉島をぐるりとした後に、島を結ぶ橋にえんやと車を止めのこのこと。土砂降りの中シャトルバスで会場に向かいます。

人生で初めてのエイサーでした。琉球の伝統的な踊りはすべてエイサーだとおもっていた無知な私は、なにもわからず素手でさわる決死の覚悟。自分が楽しむのか楽しまないのかなんてわかりません。そういえば、私は今までそうやって生きてきた気がします。自分の反応がわかっていることほどつまらないものはありません。つねに実験の精神でしかいけないのは継続性のなさを誘発すると思っておりましたがたまにはいいですな。

会場に向かうまでも、雨はどしゃどしゃと降り付けます。傘を持っていたのは私だけだったので、傘をなかなか開きませんでした。会場についから開くと、三人はいるにはとても難しいのです。折り畳み傘は小さいのです。大先輩は「おれはいいよ」といいました。小先輩は、座ってからから、少しだけ入りました。三人でひとつ屋根の下雨をしのぐということは、ときにはどうしようもなくただの奇跡です。

元気のいい開会のアナウンスは全国共通、「いよいよやってまいりましたうるま市エイサーまつり、いよいよ本日が最終日です!」そう声がかかるといままで大きなテントで雨宿りしていた人がそろそろとブルーシートに出てきました。すると雨がいつのまにかやんでいたことに気づきます。「あ、止んだ、すごい」というと、「ほんとだ」「すごい」とよこにいる二人もいいます。これもきっと、きちんとうれしがらねばいけないことです。晴れたことがじゃないよ。こうやって返してくれる人がいるってことをね。書いていたら思ったんですが、踊るってことは、ちゃんとうれしがることなのかもしれません。とりわけ伝統舞踊っていうのは、型にはまったままそれにのっとってそれを通じていくのだけど、その時の心持はどのようなのだろう。いやそんなことはわかんないけれど、喜怒哀楽を踊ったりすることと、生とを感じることって似ているような気がして、どこかエイサーはそんなところのと近くにいるような気がしたんです。

帰ってきたよ

沖縄から帰ってきました。正直、こんなにもまんまとありきたりなと絶句してしまうほどの沖縄ロスであります。いや正確に言えば沖縄で出会った人々ロスなのです。寂しいのです。単純に。人といるってことは基本的に窮屈なことなのではないかと信じてというか体感して久しかったわけですが、それが本当になかった三日間だったんですね。最後の三日間は。誰といても、誰かがちょうどよ私に無関心で、それでいて、すぐに私に向けたまなざしを投げかけてくれるというか、私にとって、それは初めての体験だったわけです。いつも私は、どうしても、汚いことをしてしまいます。好きな人に好きだって言えないことを、いつも悩んでしまいます。好きだってことをいかにばれないようにするか、ってことに骨を折ってきたんだど、そんなことに悩む暇があるんなら、泣きながらでも伝えなくちゃいけなかったんですね。そんなことをしみしみと思う時間から帰ってきて、どうしようもなく大阪での一日を過ごしたわけですが沖縄の時間の延長線上にいられるようにしたい。断絶するにはとてももったいないことがたくさんあったのだ。だから今はきちんとロスしてたいし、こっちで私が向かい合うべき人を大切にしたい。本当に自分ってやつと、いるかわからなあいそんなあいまいなやつと出会えるのは、そのあとだとおもうのです。

沖縄へ

明日から私は沖縄に行くのです。メール返したり(というのも私はスマホで文字を打つのがとても苦手で、パソコンでいつもだいたい返しています、そのほうが「のる」のです、いつも遅れてすみません)、必要な書類を印刷したり、ほどほどに荷造りしたり、水回りを掃除したり、若干大がかりな身辺整理のよう。時々どこかに行きたくなるのも、誰かに家に来てほしくなるのも、自分の身の回りをちょっと遠巻きから見て、あれこれテコ入れしたいからなんだろうなあ。今回の沖縄は、一応、学術目的です。まさか自分が所謂「学」につく機会で沖縄に行くなんて一年前は思ってもみなかった。沖縄はこれまでのいろんなことを思い出してしまう。楽しい瞬間にも罪悪感があるってことは、少々苦しいけれど、誤解を恐れずに言うならば、あの場所にいるときはそんな心持がなんだか合っている気がする。私の沖縄にはずーっとそれがついてまわるんだけど、それもまたそれでよしなのだ。

九月が来そうなので

忙しいときほどブログを作りたくなる。

何度はてなライブドア、アメーバと飛び火したことだろう。

今年二回目のはてな。登録。もう残りのアドレスはないぞ。

それでも前のブログを残して置きたくなるのはなんていうか自分の吹き溜まりのようなものを残しておきたいと思うからで。仮想でもいい。こうして言葉ってものが自分が小刻みに切り刻まれた実体だって思うから周りのキラキラした瞬間に意識が追いつかなくなってしまう。

たぶん、あの日、あの時間、もっとあったのだ。見るべきものが、みなくちゃいけなかったものが。

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地味な研究をしている。

地味な研究と生活することは似ている。

文字の羅列をどうやって読むか。なにを読み取るかではない。それ以前にやることが膨大にあるのである。それはその目の前にあるものが書物だということを理解することであったり、そこに印刷されているものが言葉ってことだったり、日本語だってことだったりする。そしてその言葉の単語は、文法は、意味は、臭いは、色は、、、、と続いていく。それをまずはただ追う。自分を表現しようなんて思うにはまだ百年早い。ただ読むだけ。

 

まずはお皿をあらえるようになりましょう。

これは洗剤といいます。

服は洗濯するのがよいでしょう。

一日着た服は案外服は汚れているものです。

ごはんを食べないと死んでしまいます。

なぜなら栄養が必要だからです。

 

こうやって、頭の中にこびりつく怨念のような生活を、しっかりと溜めてしまって、今私は棄てたいと思っている。

だけどそれを棄ててしまっては、私は研究が出来なくなるだろう。

 

もっと自分が大切でなくなりたい。

生活を棄てれば捨てるほど、誰かの言葉に耳を向けられない。

自分を嫌いにはなりたくないが、大切にすることは、きっとそれだけで何かを殺すことなのだ。