九月が来そうなので
忙しいときほどブログを作りたくなる。
今年二回目のはてな。登録。もう残りのアドレスはないぞ。
それでも前のブログを残して置きたくなるのはなんていうか自分の吹き溜まりのようなものを残しておきたいと思うからで。仮想でもいい。こうして言葉ってものが自分が小刻みに切り刻まれた実体だって思うから周りのキラキラした瞬間に意識が追いつかなくなってしまう。
たぶん、あの日、あの時間、もっとあったのだ。見るべきものが、みなくちゃいけなかったものが。
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地味な研究をしている。
地味な研究と生活することは似ている。
文字の羅列をどうやって読むか。なにを読み取るかではない。それ以前にやることが膨大にあるのである。それはその目の前にあるものが書物だということを理解することであったり、そこに印刷されているものが言葉ってことだったり、日本語だってことだったりする。そしてその言葉の単語は、文法は、意味は、臭いは、色は、、、、と続いていく。それをまずはただ追う。自分を表現しようなんて思うにはまだ百年早い。ただ読むだけ。
まずはお皿をあらえるようになりましょう。
これは洗剤といいます。
服は洗濯するのがよいでしょう。
一日着た服は案外服は汚れているものです。
ごはんを食べないと死んでしまいます。
なぜなら栄養が必要だからです。
こうやって、頭の中にこびりつく怨念のような生活を、しっかりと溜めてしまって、今私は棄てたいと思っている。
だけどそれを棄ててしまっては、私は研究が出来なくなるだろう。
もっと自分が大切でなくなりたい。
生活を棄てれば捨てるほど、誰かの言葉に耳を向けられない。
自分を嫌いにはなりたくないが、大切にすることは、きっとそれだけで何かを殺すことなのだ。